ちゃむの日記

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『恋は雨上がりのように』で描かれる未達の美学

ちゃむです。

恋は雨上がりのように』完結してしまった!!!

 

いやまず『恋は雨上がりのように』ってなんて叙情的なタイトルなんだっていう!
それだけで終わる訳にはいかないので笑、この漫画で描かれている美学についてまとめたいと思います。
確定的なネタバレは避けたいと思いますが、気になる方は先にマンガ読んでください。すごくいいから!!!!
 
あらすじは恋は雨上がりのように - Wikipediaから引用。
...感情表現が不器用で一見クールな17歳の女子高生・橘あきら。彼女はアルバイト先のファミレスcafeレストラン ガーデン』の店長である45歳の近藤正己に密かに想いを寄せている。自他共に認める“冴えない男”の近藤だが、あきらはそんな彼の魅力を「自分だけのもの」として、胸に秘めた恋心を募らせていた。そんなある日、アルバイト中に起こったとある出来事をきっかけに、あきらの秘めたる恋心は大きく動き出していく。...
 
冴えないファミレス店長近藤に女子高生のあきらちゃんが割とまっすぐ恋心をぶつけていくのも、
店長が彼なりに誠実に対応しているのも、とても爽やかで読後感がいいです。
 
そんな中で私がこのマンガに抱く感情は「郷愁」であり「憧憬」。
10代の女の子が年の離れた男性に恋心なりあこがれを抱いたりするという出来事は、完結しないからこそ美しい。
年齢とか立場とか、色々なことがあきらちゃんと店長の関係性の制約になっているのは明白です。
大人になれば、制約はそれ自体がなくなることも多くて、例えあったとしても知識と経験で乗り越えられるようになることも多いです。
自分の思い描いていた理想を現実にできることがその分多くなるし、そこに達成感も付随するようになります。
あと無理なものへの諦めも、早くなるし。
でも制約があって未達成だからこそ感じられるもどかしさやいじらしさ、ある意味その状態への感謝の気持ちとか、そういうのがあるなぁと。
そしてその姿はまぶしくてうらやましくて、ちょっと戻ってみたくもなる。達成を追い求めるようなステージにいる私からすると。
達成できて良いことがあるかというと必ずしもそうでないしね(こと恋愛に関してはそうじゃないか?知らんけど笑)。
 
今のはあきらちゃんを見てて思うことだけど、店長を見てても思うことと重なります。
学生時代からの夢を細々と追い求めつつも、それで成功を収めるでもなく、生活のためにファミレス店長をやっているのは明白。
(あきらちゃんとの関係を築いてしまえば、少しは自尊心の足しになりそうなものなのに...とすら私は思ってしまう...汚い大人になったものだなぁ笑)
でもそれをしないのは、あきらちゃんの自己実現への尊重があって、他人を自分の達成のものとして扱わない誠実な姿勢からかなと思います。
その姿勢は、何かを達成した人よりも、謙虚で思慮深くて、美しいなぁと思う訳です。
 
 
...
私達が生きていく中でも、達成を志向することから離れた方がいいこともあるのでは、と最近は思います。
例えば個人のキャリアや業務遂行において、外発的動機(地位や報酬などの自己の外にあるものにモチベーションを置くこと)よりも内発的動機に焦点を当てようという議論は常識になった感があります。
が、内発的動機も自己の価値観を拠り所に何かを達成することで、文字通り達成感を得ることで満足するというのがベース。
...じゃあ達成できなかったら、どうすればよいのでしょうね?
今は変化も早く、複雑な時代。その瞬間正解であっても、次の瞬間にはそれは不正解になっているようなことも。
努力をしたから達成できるかとるいうとそうでもない。
一つのヒントは、未達成の中でも「感謝」をベースにするとよいと。
成し遂げられてはいないけど、そんな中でも働いていること、生きていることに感謝する、という感覚でしょうか。
誰かの存在に、関係性に感謝するというのもあるのかも。
 
いやー正直、私はまだ何かを達成したい、その可能性を信じたいな。まだ若いね、そう思うと笑
でも、いつでも勝てる勝負が出来るわけではない人生、謙虚で思慮深い未達の美学に自身を投じる時があってもいいのかも。