ちゃむの日記

noteに一部お引越し予定 ※Amazonアソシエイトを使い、書籍等は紹介をしています。

孤独を病だと思いすぎることが病

 こんばんは。ちゃむです。

日比谷図書文化館に行くのにはまっている。本当に最高の図書館だと思うから、いつか紹介したい。

最近日比谷図書文化館に行ったときに、読んだのがハーバード・ビジネス・レビューの6月号で、タイトルは「職場の孤独 企業に広がる"病”」。

いくつかの論文が掲載されている訳だけど、企業の中で孤独がどのように問題になるのかから始まって、最近のイケてる会社はどこも導入しているように思える社内チャットサービスSlackのCEOとの一問一答が掲載されていて、当然Slack社はテクノロジーは絆を深めるものだと思ってやっているサービスだよね、ということが分ったり、まぁあまり新たな発見はないなと思いながらパラパラ読んでいた訳です。

その中で「マインドフルネス」という単語を見て、あーまたマインドフルネスかい、グーグル乙とか思っていたんですが、その中の一節には目が留まりました。

「仏教では孤独を病とは捉えない」

雑誌のタイトルからするとまぁまぁ挑戦的?でも結局、人間は最後は一人で死ぬという意味では孤独であるが、関係性の中にしか存在しえないという意味で共生という特徴もあって、一見相反する孤独と共生を内包した存在だというのに納得感はありました。だから孤独であるというのは、なぜかはわからないがそうなっていることでもうしょうがないことだと。
この藤田一照さんのマインドフルネスの論文は唯一面白かったかな。
近年いわゆる流行のマインドフルネスを世俗的と評しながらも批判することはなく。マインドフルネスは「経験の解像度を上げる営み」であるとのこと。
経験の解像度を上げるというのは、おおざっぱであやふやな記憶から書く例になってしまうけど…
「苦しみ」という経験はそのまま捉えると文字通り「苦しい」だけのものになるけど、「苦しみ=痛み×抵抗」と捉えて、抵抗を限りなく減らせば痛いことは痛いけど苦しくはないという状況が生み出せるという…経験を要素に細分化してみたり、時系列で細かくとらえることで客観視や自動的な反応をコントロールできるってことと理解しました。

 

孤独に限らずだけど、感情ってそんなに単純ではない。

私がこれまで働いてきた組織たちは関係性は良い方だった。でも共通のビジョンだったり、価値観でつながっているからこそ、少しでもそこから外れた時の孤独ってあるなとも常々思ってた。
さらに言うと、外れていなくてどっぷりとそのつながりに浸かっていたとしても、その関係の濃さに窒息するような感覚を感じることもある。孤独を無くしたくてつながっても、一体化しすぎるとしんどい。

 

 昔好きだった浜崎あゆみの歌の歌詞で「ひとりぼっちで感じる孤独よりふたりでいても感じる孤独のほうが辛い事のように…」っていうのがあって、別れ間近の恋人と一緒にいる時とかよくこの歌詞思い出すんだけど笑、周りに恵まれていると思ってもふと、感じることがあるのが孤独。

私はつい、仕事するなり、友人と会うなり、お酒飲むなり、恋愛してみるなり…詰め込んで詰め込んで、孤独を感じないようにしたくなる。(そして結果たまに体壊すし…)

孤独が病というよりは、孤独を病だと思いすぎることが病なのかな。孤独にも抵抗をしなければ、痛いけど苦しくないという状態に至れるのかもね。

不安の取り扱いが難しすぎる

ちゃむですです。

昨日に大きな仕事を終えて、今日明日はお休み。わーい。
今日はすっごい寝てた。まぁ今日に限らずよく寝てるけど。
時短で働きだしての驚きは、身体の不調がほとんどなくなったことでした。
月経困難症で月経時の痛みがひどくて過去には救急車に乗ったこともあるんですが、痛みが消えてなくなった……
うーん、こうなってくると、本当に今までの働き方を考えないといけないと思うというか、もう元通りっていうのはできないな。

 

今までずっと、「普通に」学生をしたり、社会人として働くために、
自分の内側から何かを駆動する感覚が、ずっとあって。
何か駆り立てないと、普通には生活できなかったな。
正直、学生の時も、社会人になっても、結果を残してきたことも多くて、
でも一方で、人に囲まれることが驚くぐらい苦痛だったり、そんなに忙しくない週でも平日どこかで休まないと働けなかったり。
発達障害心理的な病気も疑って、色々やってみたけど、とりあえず何もラベルはつかなかった。
でも、もうその探索もいいや~って感じ。とりあえず私の身体がつらいと言っているんだから、私くらいはそれを尊重してあげよう。

結果的に、人との接点は深く多くは持てないし、長時間も働けない。その制約さえなければもっとできるのに、と思いながら生きるのは、また別のしんどさがあるんだろう。
でも、とりあえず身体はそれがいい!と全力で私に語り掛けてきているので、今回はそれを採用してあげなくては。

でも、本当不安は尽きないね。
乳幼児の事故とか聞くと、全然他人事と思えなくて。私が育児なんてしたら、事故がこわくて精神保てるのか不安だわ。
普通に人生歩んでる人たちってすごすぎないか…?

 

いやーこう考えると全般性不安障害ではないかという不安がよぎる。それすらも不安(笑)

傷つきやすさ格差社会の到来

ちゃむです。
時短なので図書館で本を読んだりと、優雅に過ごしております。今日読んだ1冊から考えたお話。
傷つきやすさを題材にした10年前くらいに出版された新書だったんですが。(タイトルを覚えていないという…無念…→思い出しました笑)

その本の中では、傷つきやすい若者が増えてきた背景を説明したうえで、

核家族化により子育ての平準化機能が働かなくなった
⇒① マニュアル頼みの子育てをする親が増えた
→この育て方で育った子は「人並みになる」ことへの焦燥感が強く、傷つきやすい人へ
⇒② ①とは逆に、自分のやりたいように子育てをする親も増えた
→虐待、ネグレクトにつながったという側面もあるが、過度な放任や甘やかしを受けて育つ子たちも増えた。そういった人はむしろ人から言われることをまったく気にしない人へ

といった構造を捉え、若者の傷つきやすさの極端化を指摘していました。

10年前の若者、なので今の30代くらいの人たちのことを指しているんでしょう。
傷つきやすさ故、ニートやひきこもりになる人も…と書いてあって、あーそういう問題がよく叫ばれた時代だったなぁと思い出しました。(就職氷河期世代で、経済的な要因が大きいだろ、と思いつつ)
この本は「昨今増えている傷つきやすい若者にどう向き合うか」というトーンで書かれていて、10年前の会社や職場でそういう悩みを抱える先輩、上司が増えたということも想像に難くないです。
「叱ったら、次の日会社こない奴が出てきた!最近の子は繊細すぎる!」
「そうかと思ったら、全然言うこときかない奴もいるし!最近の若者、どうなってんだ!」 とか。うん、想像できる笑
自分のことを棚にあげると、私の周りの30代の先輩は繊細な人多いと思うし、逆に割と苛烈な人も多いなと。(でも私はそういう人、人間的で好きです)

で、この流れ自体は今でも続いていて、今の20代もそうかなと。
そして今の社会では、傷つきやすさの極端化に加えて、偏在化も起こっているのではないか?とも。
今の30代に比べて、20代は働き方の形態の間口が広くなって、 ITベンチャー起業の波から、NPOなどの企業ではない組織など…
これらの形態には「人の言うことを気にしない人」が集まっているように見えます。(そしてたまに入ってくる「傷つきやすい人」はすごく傷つきながらやっている笑)
もちろん、いまだにいわゆる企業に就職する間口もあって、そこには「傷つきやすい人」が相対的に増えているという印象。
まぁほとんどの親は子供をしっかり育てようとは思う訳で、そうなるとマニュアル化しやすい。だからマニュアル化のもと育っている人は増えているということもあるのかな。

あと、20代前半と後半でも状況が変わっている気もします。 私アラサーなので、20代前半の子と付き合うとたまにびっくりするくらい自由だな、と思うことがあります。
ユーチューバーが10代の憧れの職業、なんていうこともあり、「人の言うことを気にしない方がよい、自分が心からやりたいと思うことをやろう」という価値観が強まっていて、どちらかというとそっちが規範になってきている気もしますね。

ちなみに私は圧倒的に傷つきやすい人間ですが笑、学生時代に社会的起業のムーブメントが強かったので、「自分が心からやりたいと思うことを」という規範が強く、板挟みになって苦しいなと思っています笑

傷つきやすいにせよ、図太いにせよ、極端であることは個人にとってはあまりよいとは思えないというか…
極端さ故の高い能力もあると思いますが、本人が最終的には苦しくなるかと。 その二者の偏在化は、対話の機会が少なくなるという意味でさらに極端化を引き起こすのではということを危惧した今日の午後でした。

 

書いたあとこの本だったと思い出した!

傷つくのがこわい (文春新書)

傷つくのがこわい (文春新書)

 

 

 

世界は分断されている。けどたまに突然融合するよね。

休職中、平日に美術館に行った。

その日は運悪くシルバーデイで、65歳以上かな?が無料になる日だった。

大量のお年寄りがそこに...笑 いやぁ都内中のお年寄りが集まったかと思った笑


日本の4人に1人が高齢者、とかよく聞くけど、普段そんなこと実感したことない。

自分の生活の中で、そんな大勢のお年寄りと会わないもの。仕事してるからね。大体の企業はお年寄りいないし。

(お年寄り、って言ってるけど、その言葉にも相当違和感ある。あれは30代の数十倍元気だよ。

仕事柄多くの会社に出入りするけど、業界によっても人員構成がすっごい違う。

自分の所属をアイデンティティにしない方がいいって言うけど、アイデンティティにしない上で、

でも自分がどこに所属するかで見える世界がまるっきり違うんだということは自覚しておいた方がいいんだなって思った。


世代っていうのはわかりやすい一つの分断の形態で、例えば今の50代が若い時バブルを経験して、いい加減な面がある。でもエネルギッシュな良い面がある...

みたいなのって簡単に理解できるけど、アラサーの私はやっぱり共感はできない。頭に???しか浮かばないこと、たくさんある。


結局、世界の一部を切り取って、それにラベルを貼るのが言語だから、言語があると分断はある程度避けられない。

そんな世界の中でたまに、あ、この人とつながったなと思うことがある。

そういう時って体感だなぁと。もちろんその人との最初の接触は言語を通すことが多いけど、言語を重ねつくした時にたまに出てくる。

そういう人がみんなにいるといいなって思う。

宗教やら発達段階やら、色々な領域で語られてる話だと思うけど。この話は分析して語りたい類ではなく、なんか、世界に願いたいなって感じ。

願わくば、既存の社会でより生きづらい人にとびきりの出会いがありますように。


今回思ったのは、それだけなんだけど笑




見えざる弱者問題と、とはいえ資本が大事でしょ問題

ちゃむです。最近メンタル不調によるお休みから見事に復帰し、時短でお仕事しております。
最初は時短で帰るなんて罪悪感で死ぬんじゃないかと思っていたけど、そんなこともなく割と図太く生活している自分に驚き。でもそんな自分は嫌いじゃない笑
時短で働くだけでも、しかも比較的向いた仕事を与えられていると思うんだけど、すごく疲労するので、リワークって大事だなぁと思っている次第です。


認知行動療法のカウンセリングにも行っております。
心療内科のお医者さんには「一時的な疲労による症状だと思うので、必要ないと思いますけどね…」と言われながら、
渋々紹介してもらった(本当びっくりするほど渋々だった笑)んですが、結論本当に足を運んでよかった。

初回でやったことは非常にシンプルで、家族関係についてと高校生までの生育環境についてお話ししました。
で、その話から指摘されたポイントも超シンプルというか、以下の3つしかありません。
(1) 父親との記憶が非常に薄いこと
(2) 高校生までの生育環境では割と色々なことが起こっていて、大変な生活をしてきたように客観的にも見えること
(3) 非常に神経質で気を遣いまくってきたこと

本当にこれだけ。でも、私はめちゃめちゃ安心しました。
(3)の自覚はあったけど、なかなか人と比較できるものでもないので、今まで確信をもって自分の神経質さを主張できなかったから「あ、神経質って思っていいんだ」と思った。
(2)については、専門家の目から見ても大変と思ってもらえることに、自分でもびっくりするほど安堵。
私は親が離婚しているんですが、それを除けば、傍から見ると割と「よい環境」で育ったように見えると思います。つまり、客観的事実としては両親の離婚くらいしか問題点が生育環境にないし、実は私自身は離婚に影響を受けたとはあまり思っていません。
(そもそも離婚前の時点での父親の記憶も薄いし)
私は心のどこかで「生きづらさ」をずっと感じてて、だけどその原因は「親の離婚」です、と言えるほど、そこに思い入れはなく…
一言で生きづらさの原因を言い表せないから、他人にもなかなか理解してもらえないことが多くて、何なら自分もよくわからないし、正直途方に暮れていました。
未だに原因は何?と言われても端的にはわからないです。が、とりあえず私の生育ストーリーは専門家の目から見て、しんどいと言ってもらえる程度にはしんどかったんだとわかって、何かストンと落ちました。
(1)も指摘してもらえてよかった。記憶がないというのは抑圧しているのか、単純に接触機会の問題なのか、まだよくわからないですが、とりあえずそこには何かがありそうということが見えただけでも前進かなと思います。
ま、まだどうすればいいかなんて全然思いつかないのですが、「自分のことを自分が、自分こそが、優先してケアしてあげていいし、それに足る原因が生育環境にあったんだ」と思えて、すごく嬉しくなりました。

 

大学生の時、学生生活にうまく適応できず、でもドロップアウトする程には状態がひどくもならず、その時も途方に暮れていました。
でも「自己内省」と「信頼する人からのフィードバックやアドバイス」で、浮上するきっかけを掴みました。
そして思ったのは、自分と同じような人を同じような方法で助けたい、ということ。(今思えば、過度な自己投影で危険だったんですが、それは置いといて)
でもそこでぶつかった壁が見えざる弱者問題でした。(別に一般用語ではなく、私が勝手に呼んでるだけです、悪しからず。)

「…自分と同じような人ってどういう人だ?」
私は模範的な就活生でもありましたので(笑)、覚えたてのロジカルシンキングMECE!を駆使して4象限マトリクスとかロジックツリーとかを書いてみたかったんです。
でも結果として、できませんでした。
なぜなら、先ほども書いた通り、私はそれほど貧しい家庭でもなかったですし、離婚はあれど常識の範囲内の家庭関係だと思いますし、今のところ発達障害などのいわゆる疾病の類もないみたいです。
レッテルが貼られないから理解されない苦しみだったり、レッテルがないから自分で苦しいと思ってよいと思えない苦しみっていうのがあって、
そういう見えざる弱者をいかに掬い取れるか…奇しくも学生時代に考えて答えが出なかった問いに戻されたなぁと思っています。
(「大人の発達障害」とかの議論を見ていると、レッテルがあることの難しさも同時に感じるので、結構本当に悩ましい…)

 

見えざる弱者に救済を!恵まれているように見えたって苦しんでいる奴がいるぞ!と声高に主張したくてここまで書いたようなものなんですが、
でもね………認めざるを得ないです、自分が資本に恵まれていることは。
私がたとえ見えざる弱者でも、何とか生き延びて、何ならこれも傍から見ると安定して生活が出来ているのは、
皮肉なことに家庭・生育環境の中で経済的資本や親の文化資本…などに恵まれたからだと思います。
崩れそうになっても、休んだり、そのあとに再チャレンジができる基盤に恵まれていると思います。
この辺りも、学生時代のずぶずぶ共依存だった恋人との関係で思ったことで、奇しくも学生時代思ってた問題じゃないかループなので、
自分のこころの整理のためにも言語化できたらと思います。

 

認知行動療法、ちょっとは知りたいと思います。とりあえず読もう。

マンガでやさしくわかる認知行動療法

マンガでやさしくわかる認知行動療法

 

私はとりあえずマンガから入ることを信条としています。

過剰適応とわたしの適切な距離感とは

今日は普通に日記的なsomethingとして。

 

私、会社からお暇いただいておりまして。もうすぐ復帰だけど。
メンタル不調によるもので、原因は「過剰適応」。
適応障害、という所見はついておらず、他の病名で診断がくだってるんですけど。
過剰適応というのはつまり、環境に合わせすぎて自分のこと傷つけてるよ!みたいな状態なんだと思うんですが...

matome.naver.jp

(たぶんこんなん。学術的なとかは知りません笑)


まぁその傾向は昔からあったし自覚もあったり...ただ変えるのは本当に難しいなと思う日々。

適応障害の本だったり、webの記事には大体紋切り型で以下のようなことが書いてあります。

・真面目な人がなりやすい。周囲の期待に沿おうとするあまり、頑張りすぎてしまう。

・自身のネガティブな感情を無視せず、ケアすることが大事。

・振られるタスク等を断ることが大事。自分の意思を主張しましょう。

・根底には人に嫌われたくない、傷つけたくない、周りの関係を安定させたいという思いがある。

 

いやーわかるわかる。アサーティブって大事だよねーーー知ってる知ってる。
...できたら苦労しねえんだよばかやろう!!!笑

 

いや、本当にわかってるんですよ。。。ただね、上記を踏まえて自分の心の中では…

「タスクを打診された時は本気でやりたい、力になりたい、と思ってしまうんだよな…。
その時はその相手の感情に本当に自然に同調しちゃうし、なんならたまに『土日はこういうことがあって忙しいんだよな…』とか相手が思っていることを自分が思っているように思っちゃうんだよな…これが結構また当たるんだよ。なにこれ?破壊的同調ってやつなの?
それにタスクができるか、って聞かれれば能力的にはできるじゃん。てか能力的にできないって何?医者になって、と言われたって適切な時間があればできるわ。私に限らずみんなできるわ。時間内にできる質でやって、と言われれば、断る理由がないわ。残業してできないことはないだろうよ。
人に嫌われるのが怖くて自己主張できないっていうのも、当たってるといえばそうなんだけど、そしたらどうすればいいねんって話なんですわ。まさか『私より仕事やってないから、やってください』とか言えないじゃんね!!!笑 『手一杯です』って言ったって、結局やらされるのわかってるから!!
てか自分の思っていることをそのまま伝えて、不快な思いをする相手からの対応が、自分に損になるということの長年の学習の結果だからさ…無理ゲーかよ」

と、心の中の愚痴が止まらん!笑
私が変わるというより、周りが変わるから解決するかもだけど。(メンタルこじらせられたら困るから仕事振れないな、的な)
でも根本的に、自分の行動の何が変わっていたら回避できたのか、正直本当にわからないのは不安。

とはいえ、会社復帰間近。なるようになるよね。とりあえずびっくりするほどの同調性を生かすためにタロット占いの勉強はじめます。目指せカリスマ占い師☆笑

 

『恋は雨上がりのように』で描かれる未達の美学

ちゃむです。

恋は雨上がりのように』完結してしまった!!!

 

いやまず『恋は雨上がりのように』ってなんて叙情的なタイトルなんだっていう!
それだけで終わる訳にはいかないので笑、この漫画で描かれている美学についてまとめたいと思います。
確定的なネタバレは避けたいと思いますが、気になる方は先にマンガ読んでください。すごくいいから!!!!
 
あらすじは恋は雨上がりのように - Wikipediaから引用。
...感情表現が不器用で一見クールな17歳の女子高生・橘あきら。彼女はアルバイト先のファミレスcafeレストラン ガーデン』の店長である45歳の近藤正己に密かに想いを寄せている。自他共に認める“冴えない男”の近藤だが、あきらはそんな彼の魅力を「自分だけのもの」として、胸に秘めた恋心を募らせていた。そんなある日、アルバイト中に起こったとある出来事をきっかけに、あきらの秘めたる恋心は大きく動き出していく。...
 
冴えないファミレス店長近藤に女子高生のあきらちゃんが割とまっすぐ恋心をぶつけていくのも、
店長が彼なりに誠実に対応しているのも、とても爽やかで読後感がいいです。
 
そんな中で私がこのマンガに抱く感情は「郷愁」であり「憧憬」。
10代の女の子が年の離れた男性に恋心なりあこがれを抱いたりするという出来事は、完結しないからこそ美しい。
年齢とか立場とか、色々なことがあきらちゃんと店長の関係性の制約になっているのは明白です。
大人になれば、制約はそれ自体がなくなることも多くて、例えあったとしても知識と経験で乗り越えられるようになることも多いです。
自分の思い描いていた理想を現実にできることがその分多くなるし、そこに達成感も付随するようになります。
あと無理なものへの諦めも、早くなるし。
でも制約があって未達成だからこそ感じられるもどかしさやいじらしさ、ある意味その状態への感謝の気持ちとか、そういうのがあるなぁと。
そしてその姿はまぶしくてうらやましくて、ちょっと戻ってみたくもなる。達成を追い求めるようなステージにいる私からすると。
達成できて良いことがあるかというと必ずしもそうでないしね(こと恋愛に関してはそうじゃないか?知らんけど笑)。
 
今のはあきらちゃんを見てて思うことだけど、店長を見てても思うことと重なります。
学生時代からの夢を細々と追い求めつつも、それで成功を収めるでもなく、生活のためにファミレス店長をやっているのは明白。
(あきらちゃんとの関係を築いてしまえば、少しは自尊心の足しになりそうなものなのに...とすら私は思ってしまう...汚い大人になったものだなぁ笑)
でもそれをしないのは、あきらちゃんの自己実現への尊重があって、他人を自分の達成のものとして扱わない誠実な姿勢からかなと思います。
その姿勢は、何かを達成した人よりも、謙虚で思慮深くて、美しいなぁと思う訳です。
 
 
...
私達が生きていく中でも、達成を志向することから離れた方がいいこともあるのでは、と最近は思います。
例えば個人のキャリアや業務遂行において、外発的動機(地位や報酬などの自己の外にあるものにモチベーションを置くこと)よりも内発的動機に焦点を当てようという議論は常識になった感があります。
が、内発的動機も自己の価値観を拠り所に何かを達成することで、文字通り達成感を得ることで満足するというのがベース。
...じゃあ達成できなかったら、どうすればよいのでしょうね?
今は変化も早く、複雑な時代。その瞬間正解であっても、次の瞬間にはそれは不正解になっているようなことも。
努力をしたから達成できるかとるいうとそうでもない。
一つのヒントは、未達成の中でも「感謝」をベースにするとよいと。
成し遂げられてはいないけど、そんな中でも働いていること、生きていることに感謝する、という感覚でしょうか。
誰かの存在に、関係性に感謝するというのもあるのかも。
 
いやー正直、私はまだ何かを達成したい、その可能性を信じたいな。まだ若いね、そう思うと笑
でも、いつでも勝てる勝負が出来るわけではない人生、謙虚で思慮深い未達の美学に自身を投じる時があってもいいのかも。